イントロとレビュー

今回上映する作品の地域・歴史的背景や作家的テーマについてのイントロダクションと、作品を鑑賞してのレビューを映画チア部のメンバーが執筆しました。みなさまのご鑑賞の際に、ぜひあわせてお読み下さい。

死ぬ間際

In Between Dying

監督:ヒラル・バイダロフ(Hiral BAYDAROV)
2020年/アゼルバイジャン、メキシコ、アメリカ/88分

イントロ

アゼルバイジャン(正式名称・アゼルバイジャン共和国)は、東ヨーロッパと西アジアの中間地点に位置する国家であり、人口の9割以上がイスラム教徒である。1920年、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国としてソビエト連邦に編入されたが、1991年に独立を宣言し、今に至る。
1987年、ソ連時代のアゼルバイジャンに生まれたヒラル・バイダロフ監督は、コンピューターサイエンスの修士号を取得後、サラエボフィルムアカデミーで映画を学んだ。その後、長編デビュー作『HILLS WITHOUT NAMES』(2018)がモントリオール世界映画祭でプレミア上映され、同年、ドキュメンタリーデビュー作『BIRTHDAY』(2018)がサラエボ映画祭にてドキュ・タレント賞を受賞。
本作『死ぬ間際』は、アゼルバイジャンの首都バクーに住む主人公ダヴドの数奇な1日を、幻想的な詩と共に描いている。誤って人を殺してしまい、追手から逃げるために町を出たダヴド。彼が逃亡の途中で出会う女性たちは、父親や夫から抑圧され、厳しい現実を生きていた。彼女たちと語り合い、その度にさらなる死を経験しながら、ダヴドは、「家族」とは、「愛」とは何かを追い求めていくのであった…。

(藤原)

レビュー

広大な草原に男と1頭の白馬、そしてムスリムの女性と子ども。男は病気の母と口論した後、女とバイクに乗って薬物を仕入れにいく。しかし女を侮辱した売人を撃ち殺し、男は追われる身となる。ここから男の逃避行が始まる。訪ねた先で出会う女たちは、狂犬病の女、平原に座る女、結婚を強制された花嫁、盲目の女など皆、男中心社会の中で暴力や社会的抑圧など不遇な扱いを受けた者たち。彼女たちは、彼に感化されたかように殺人を犯す。それは彼女たちにとって救いであり、自分たちを縛る鎖からの解放であったと読み取れる。1人目の女性は父親、2人目は夫、3人目は自分自身、4人目は母親から解き放たれた。最後には、夫を待ち続ける女と出会う。彼女との対話から、男は彼女たちの殺人の裏には愛があることを悟る。女たちは憎悪ゆえではなく、愛ゆえの殺人・死を選択していたのだと。そして、ようやく男は愛する母親の元へと戻り旅を終える。
アゼルバイジャンはイスラム教国家ということもあり、男性中心社会が少なからず残っていることが本作から感じた。詩的表現、強い寓話色、アゼルバイジャン独特の土地や自然、さらにロングショットや長回しによって、生と死、愛と死の関係性が作品を通して見事に描かれている。

(梁瀬)

風が吹けば

Should the Wind Drop

2020年/フランス・アルメニア・ベルギー/100分
監督:ノラ・マルティロシャン(Nora MARTIROSYAN)

イントロ

本作の舞台であるナゴルノ・カラバフ地区には、アルメニアとアゼルバイジャンとの長い紛争の歴史がある。両国は古くから、この地区を自国の領土であると互いに主張し、度々軍事衝突に発展していた。ソ連時代の1988年から崩壊後の1994年まで、ナゴルノ・カラバフ戦争と呼ばれる戦争が行われ、その間の1991年にナゴルノ・カラバフ共和国が誕生。事実上国家として独立するものの、国際社会にはほとんど認められず、アルメニアの保護国として捉えられてきた。
監督であるノラ・マルティロシャンは、ソ連時代のアルメニア・ソビエト社会主義共和国(現アルメニア共和国)で生まれ育ち、2009年に、初めてナゴルノ・カラバフを旅する。現地での経験は彼女に強烈な印象を与え、その後の何年にも及ぶ取材や創作期間を経て、本作『風が吹けば』が製作された。主人公のフランス人技師アランが調査することになる空港は、実際に存在しており、映画と同じく、政治的理由で飛行機が離着陸できない状況にある。監督はこの空港を物語の中心に置くことで、ナゴルノ・カラバフが直面している問題を示そうとしたのである。
非常に悲しいことに、2020年9月27日、再びナゴルノ・カラバフでの戦闘が勃発した。戦闘は一か月半ほど続き、11月10日に停戦合意に至ったものの、その後もたびたび合意に違反した交戦が起きている。監督も、2020年11月のInstitut françaisによるインタビューで、「『風が吹けば』に存在する人々や風景など、全てのものが現在破壊の脅威にさらされている」と、深刻な現状について言及した。「フィクションを作るということは、現実から派生したものを、ただ何も言わずに語ること。どんな芸術的なジェスチャーも、存在する必要のないものを公にし、存在させることで、政治的なジェスチャーになる。」こう語る監督の言葉をぜひ心に留め、本作を鑑賞してみて欲しい。

(藤原)

レビュー

かつての戦争により閉鎖された空港。飛行機の飛ばない空港に存在意義はあるのだろうか。
本作では主に、空港を再開するために調査に訪れたフランス人、そして空港に無断で出入りしている少年の目線から、ナゴルノ・カラバフ地区の様子が描かれている。
子どもたちが路上で楽しそうにサッカーをしている。水を配って回る少年に大人たちが声をかけ、水をもらう。出産し、父親になったガイドへ夜中にお祝いを買う。
戦争があった地とは思えない静けさが、作品を通して感じられる。
そんな平穏な日常が何度も描かれていることが、返って戦争の記憶を彼らの頭によぎらせる。
夜になれば、コオロギの鳴き声だけが聞こえる。銃声がないから聞こえる音であると同時に、いつ銃声が再び聞こえ始めるのか不安を煽るような音でもあると感じた。
飛行機が再び飛ぶ日も近いのかもしれない。空港が再開すれば、自分たちが独立できる日も近いのかもしれない。空港再開こそが、ナゴルノ・カラバフ地区独立への希望の象徴であり、これこそ、飛行機の飛ばない空港がそこにあり続ける理由なのではないだろうか。

(東)

イエローキャット

Yellow Cat

2020年/カザフスタン・フランス/90分
監督:アディルハン・イェルジャノフ(Adilkhan YELZHANOV)

イントロ

監督を務めるアディルハン・イェルジャノフは、本作の舞台でもあるカザフスタンを代表する監督であり、同じく監督を務めた『世界の優しき無関心』はカンヌ映画祭に出品され、第31回東京国際映画祭でも上映されている。本作『イエローキャット』もヴェネツィア映画祭オリゾンティ部門で上映された監督の最新作。
本作の舞台はカザフスタンの草原。カザフスタン共和国はロシアの南西に位置する国で、1991年に旧ソ連邦から独立し、現在では石油や天然ガス、鉱物などに恵まれた資源大国である。また、世界第9位(日本の7倍)を誇る国土面積のほぼ全体が草原であり、本作はその広大な草原を舞台にする事によって解放感のある映像体験をもたらしている。
劇中には、アラン・ドロン主演の映画『サムライ』や、ロバート・デ・ニーロ主演の映画『カジノ』など多くの作品のオマージュが存在し、監督自身の映画愛を感じさせる。彼は東京フィルメックスでのインタビューにおいて「『サムライ』が非常に大好きであり、かつ尊敬している作品であるため、この作品への想いを表したかった」と語っている。これらの作品を事前に観る事で、より一層、本作を楽しむことができるかもしれない。

(上地)

レビュー

イエローキャットとは、木炭を安く売る事を目的とした狩人が、山火事が起きた際に猫に灯油をかけて火をつけ森に放つ事を言うそうだ。燃え盛る猫はいくら走っても助かる事はない。ただ必死に死を待つだけである。そんな題名がつけられた本作は、前科のある映画好きの男が映画館を建てたいという思いを胸に自由への逃避行を始めるストーリー。だだっ広い草原に延々と続く青い空。一見美しい映像だが、この映画にはどこか閉鎖的な雰囲気が立ち込めている。狭いコミュニティの中で従順に働く事だけがここで生き残る術であり、少しでも口答えをしたり歯向かったりすると命の保証はない。誰もが互いを縛り合い、自らも生涯この場所に縛り、それが当たり前だと信じて疑わない世界。そんな中、それは間違いだと自由を模索する男と女がいた。置かれている状況から脱し、資金を手に入れ、夢を叶えようとする二人に迫る魔の手。二人の逃避行の行方とは。そして男が本当に手に入れたかったものとは。ラストシーンこそ淡々としているが、逆にそこから溢れる悲壮感ややるせ無さ、そして少しの幸福感が胸を締め付けられずにはいられない。これはバッドエンドなのかハッピーエンドなのか、それは個人に委ねられるが私はハッピーエンドだと思う。逃れられないとわかっていても願い続けることの意味。彼の行動はきっと無駄ではなかっただろう。ぜひ彼らの行く末を見守ってほしい。

(刀根)

カザフスタンに広がる大草原、男は仕事を求め店に入る。店員が「何ができる?」と尋ねると、「『サムライ』のアラン・ドロンのモノマネができます。」と求められてもいないのに、突然帽子をクイッとズラす真似をし始める。メルヴィルのフィルム・ノワール、アラン・ドロン、もちろん『サムライ』が好きな私は、あまりにも似ていない彼の真似に唖然としたが、どこか愛嬌があって憎めない男だった。彼は採用されるも、前科者だったためすぐに警察に捕まってしまう。その後男はギャングたちにこき使われることとなるが、映画館を作る夢を諦められない男はギャングの金を奪い、愛する女と逃避行を始める。作品で描かれる男と女の距離感、やり取りのぎこちなさがなんとももどかしい。
また本作では『サムライ』だけでなく、『雨に唄えば』『カジノ』など名作映画のオマージュが多く、映画好きにとってはクスッと笑えるシーンが多い。特にラスト、即席スクリーンの前で男が『雨に唄えば』の踊りを再現するところは印象的である。
題名であるイエローキャットとは、木炭を安く売るため猫を捕まえ、灯油をかけて火を付け森に放すことだと劇中語られる。猫は森をどこまで走っても助かることはない。イエローキャットというタイトルの意味と男女の結末を考えると、作品がより面白くなるだろう。

(梁瀬)

迂闊(うかつ)な犯罪

Careless Crime

2020年/イラン/134分
監督:シャーラム・モクリ(Shahram MOKRI)

イントロ

本作はイランの宗教革命前夜に起こった映画館放火事件を元に作られ、ヴェネチア映画祭オリゾンティ部門で上映された。
この作品の題材となった放火事件は、1978年8月19日イラン南部の都市アバダンの映画館レックス劇場で起こったものである。当時イランでは、1963年から「白色革命」と呼ばれる急激な近代化政策がシャー(国王)によって進められていた。そのため都市には地方から農民が流入し、農村は疲弊。さらにインフレが発生し、国民の間では経済的な不満、西洋化・近代化に対する怒りが徐々に高まっていた。そのような状況下で、映画館は西洋文化の象徴として捉えられ、西欧文化を否定する暴徒が多くの映画館を焼き討ちにした。中でもレックス劇場での放火事件は、少なくとも470人もの犠牲者を出した。事件当時、本作でも登場するマスード・キミアイ監督の『鹿』が上映されていたが、上映中男性4人が映画館のドアを塞ぎ、ガソリンを撒いてマッチで放火したと言われている。この悲惨な事件は反政府運動に拍車をかけ、1979年のイラン革命に発展していく。首謀者として反政府組織やシャーの関係者が挙げられていたが、いまだ真相は明らかになっていない。監督によれば、「原因としては政治的なものだけでなく、色々な悪条件が重なってケアレスに火がついたという説もあり、作品では後者の説をモチ―フにした」と述べている。
本作では、40年前の事件と同じように4人の男たちが映画館の焼き討ちを計画する様子が描かれ、過去と現在、虚構と事実を交錯させながら話が進んでいく。「将来、同じような事件が起きないように、40年前の事件と現在をどう語ればいいか、当時のキャラクターをどのように今のテヘランに反映させれば良いかを考えながら、パズルのように現在と過去を繋いだ」と監督は語っている。

(梁瀬)

レビュー

映画館焼き討ちを計画する4人の男たちを中心に描いた本作。様々な人々の会話を軸に、全編を通してゆったりと話は進んでいくが、随所に巧みな演出上の工夫が凝らされている。このうち、主な4点を紹介する。
1つ目は、現実と虚構の繊細な混在。リアリティのある映像に身を委ねて観ていると、自分でも気づかないうちに虚構の世界へと誘われる。現実の少し上を浮遊する、心地のいい陶酔だ。
2つ目は映画の中にまた映画、その中にまた映画、と3層になっている入れ子構造。現実と虚構だけでなく、映画の中と外まで交差する緻密な設計には恐れ入った。
3つ目は細かな時系列の混交だ。ただ時系列が無計画に混ぜ合わされているわけではなく、同じ場面を異なる登場人物の視点から繰り返し映し出したり、1層目と2層目で時系列を交差させたりと、より複雑かつ精密なシャッフルがなされているのである。
4つ目は途中に登場する、とあるループシーン。実際に本作を観ればすぐに分かると思うが、エッシャーのだまし絵のような印象的なループのシーンがスパイスのように効いている。この圧倒的な美しさには、ひたすら興奮した。
以上の4つが、映像に一層深みを与えている。これだけ複雑な技巧を凝らしてもわかりやすく物語が展開されていくのが本作の最も優れた点かもしれない。

(五味)

1人の男が薬局に入るも、店員からの助言で博物館へ向かう。そこでは"ケアレス"で起こる火事のサイレント映画が流れている。男は女性に導かれて暗闇へと歩み出す。ここで現実世界から虚構へ層が変わる。男が外へ出ると、謎の巨体が何かを渡す。そして、映画館の放火に向かって物語が進む。冒頭シーンだけでも、伏線の張り方や一層目から二層目への入れ子構造が秀逸。構造としては、実際の事件から40年後の現在がベースとなる『迂闊な犯罪』、劇中のスクリーンで上映されている『迂闊な犯罪』、さらに事件時に実際のスクリーンで流れていた『鹿』の三層であり、頻繁にその三層が入れ替わる。この緻密な入れ子構造のおかげで、事件を直接的に描くというナンセンスな描写はなく、作品全体が洗練されている印象を受ける。
さらに撮影も計算し尽くされている。大きな音を立てながらビンの入ったケースを移動させる男、映画の上映中に何度も立ち上がる男たちといかにも怪しい動きをしているのだが、物陰から覗き込むような長回しによって彼らが風景として同化し、違和感を感じさせない。また同じシーンでも登場人物の目線ごとに撮影した映像が繰り返されたり、フレームアウトを観客に見せるといった撮影手法も、この作品では重要な役割を担っていると言える。

(梁瀬)

マイルストーン

Milestone

2020年/インド/98分
監督:アイヴァン・アイル(Ivan AYR)

イントロ

長距離トラック運転手を主人公におき、彼が亡くなった妻に対し、どのように責任を取るべきかと苦悩する姿を描く。主人公が長距離トラック運転手であるのは、「トラックは移動しているけれども、中にいるドライバー自身はトラックという小さな箱の中から動くことができない」という監督の気づきがあったからである。
オープニングの長いシークエンスは、主人公が360度目に入るものを観客と共有してもらうためのものだ。
妻が亡くなった経緯は間接的にしか語られず責任は主人公にあるのか、他にあるのか、観客は想像するしかない。主人公の人間性は新人ドライバーとのやり取りから浮かび上がり、同僚のドライバーたちの言動からは社会情勢も読み取れる。決して完全な悪者がいるわけではなく、葛藤の中で日々の生活を送る姿を描いている。“マイルストーン”とは道路の中間地点に置かれている標札のことである。映画の中で重要な役割を果たす検問所がタイトルに結び付けられているのだろう。
監督は本作が第2作目となるアイヴァン・アイル監督。小津安二郎や市川崑など日本を代表する映画監督からも影響を受けたと述べるアイヴァン監督。コロナ禍で誰もが文化や芸術を話す余地がなくなっていると問題意識を持ち本作を手掛けた。本作はヴェネチア映画祭オリゾンティ部門で上映された。

(数村)

レビュー

一人の男の責任に関する作品であった。トラック運転手である主人公は腰痛を抱えている。階段を昇り降りするシーンやトラックの乗り降りするシーンで腰痛であることが観客にわかりやすく伝わる。温かいタオルで腰をケアするシーンでは長年腰痛で苦しんできたことも理解できた。トラック運転手の仕事にはただ荷物を運ぶだけではなく、荷物の積み下ろしも大切な仕事であり長年この仕事を続けると腰への負担が掛かるのだ。作中何度も出てくる検問所はなぜ設けられているのか考えてみるのも面白い。トラック運転の仕事は夜間運転が多いが勤務者の負担は大きい。
一人の男の責任とは、妻に対する責任であり、後半登場する新入りドライバーに対する責任も含んでいるのはないか。後半は新入りのドライバーとのバディ物である。私は主人公の責任の取り方には賛成できず、劇中登場する村落員会での審議でも賛成するものはいなかった。金銭で解決しようとする姿勢は村落委員会でのやり取りだけでなく、後半の新入りのドライバーに対してのある行動からも見て取れる。問題の解決を金銭で行ってよいのか。村落委員会で妻の娘は何を求めているのか。そのことについて考えるための「猶予の30日間」であったが、はたして主人公は現実や自分自身と向き合うことはできたのだろうか…。

(数村)

アスワン

Aswang

2019年/フィリピン/85分
監督:アリックス・アイン・アルンパク(Alyx Ayn ARUMPAC)

イントロ

本作は、フィリピンの大統領であるドゥテルテ政権下に生きる人々を追ったドキュメンタリー作品であり、アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭でも上映された。
作品のタイトルにもなっている『アスワン』は、フィリピンの伝説の生き物の中でも最も有名なもので、日中は人間の姿をしており、夜になるとコウモリのような大きな翼で飛び回るフィリピンにおけるヴァンパイアのようなものである。
ドゥテルテ政権は麻薬の一掃を目指し、薬物撲滅のためには薬物に関わった者の殺害も辞さないとして「薬物戦争」宣言をし、強硬姿勢を見せている。フィリピンでは約1億人の人口に対して薬物使用人口はおよそ180万人と推定されており、薬物問題やそれに伴う犯罪が深刻化している状況があった。その状況を打破するための超法規的な政策が打ち出され、警察によると2019年までに少なくとも6600人が死亡していると報告されるが、活動家は2万7000人以上が死亡したと主張している。本作でもショッキングな映像が多々収められており、時には目を背けたくなるほどのシーンも存在する。その一方で、ドゥテルテ大統領は現在でもフィリピン国民に高い支持率を誇っているという実情もある。
監督は、次の選挙(2022年)までになるべく多くの方にこの作品に触れてもらう事をゴールとしていると述べている。

(上地)

レビュー

フィリピンのドゥテルテ政権は経済政策や中国との交流などで国家を繁栄させ高い支持率を記録している。一方で、人権を無視した過激な政策によって治安を向上させようとし、問題となっている。演説では麻薬密売人をはじめとする犯罪者、堕落した警察官、そして「怠け者」を処分することに強い意欲を示す発言をした。そのためには殺しすら厭わない。その第一の標的は売人側ではなく使用者たちだった。
仮面ライダーやプリキュアが無くても子供たちはごっこ遊びをする。僕が遊園地ですれ違った子供たちと同じ屈託のない笑顔を浮かべている。しかし演じているのは警察官と貧民だ。記者が夢を訊くと、子供たちは静かに答える。ある子どもは「学校を卒業しないとだめだな」と言う。その表情には今まで見た子供には感じたことのない影があった。子供にこんな顔をさせる社会があっていいのだろうか。
殺された息子の無実を訴える女性がいた。彼女の苦痛が彼女の声と表情を通じて僕を串刺しにした。心を砂場に例えたら、彼女はショベルカーで丸ごとえぐり取られたのだろう。時々雨に降られたりスコップで掘られるぐらいの自分にはその傷はあまりにも深かった。彼女のこれからの人生を僕は想像することができなかった。
アスワンとは人間を食べるフィリピンの伝説上の怪物である。大事な人を彼らに食べられてしまった人々は絶望の中で彼らを憎むことしかできない。

(岩本)

この映画はドゥテルテ政権によって被害を受ける貧困層に焦点をあて、悲しくもリアルな現状を見る人につきつけ、とてつもなく重く暗い描写で描かれている。そんな暗い描写の中、スラム街の子供達が無邪気な笑顔で追いかけっこをしている場面は、一見心和む瞬間かと思いきや、その追いかけっこは私たちが子供の頃に遊んだような平凡なものではなく、警察官が市民を次々と殺していく殺人ごっこであり、その現実は私の想像を超え、どのシーンよりも胸を締め付けた。
私は以前1ヶ月間フィリピンに滞在したことがあるが、その間ドゥテルテを悪く言う人に出会ったことがなかった。私は富裕層の住む街に住み、そこにある学校に通い、隣町にはすぐスラム街があると知ってはいたものの、学校からは危険だから行くなとまで言われていた。まるでスラム街の人が危険で、悪い人かのように。もしこの映画を観なかったなら、恥ずかしながら私は上流階級の人たちの偏った意見しか知ることはなかっただろう。
この映画は自分たちの声をあげることが命懸けである貧困層の声を代弁する貴重な映画である。彼ら自身でフィリピンを変えることは極めて難しいかもしれない。しかし、この映画を通して、私たちがリアルなフィリピンの現状を知ることは、彼らにとって、とても大きな第一歩となるに違いない。

(新田)

無聲(むせい)

The Silent Forest

2020年/台湾/104分
監督:コー・チェンニエン(KO Chen-Nien)

イントロ

実際に台湾で起こった事件をもとに、コー・チェンニエン監督が少年少女の悲しみと大人社会の実態を描く。舞台となった聾唖学校で起きた一つの事件。子どもたちのゲームがいじめへと発展し、一人の少女を傷付けた。問題が発覚し一人の教師が解決に向けて動き出すことで、学校側の闇や実行犯である少年の本当の動機に触れていく。時に痛く少年少女に寄り添う演出の仕方は観客の共感を呼ぶだろう。
演技経験のない新人を役に置くことで観客が感情移入しやすいように配慮し、新人の役者には長い期間に渡って演技レッスンを行った。韓国の俳優であるキム・ヒョンビンは言葉を話さない役であったため起用できたそうだ。
「なぜこの事件が起きたか」と考えたことがこの映画を撮る動機であり、事件の記事をたくさん読むことで問題の本質がどこにあったのかを徹底的に掘り下げた。加害者と被害者には一切会わず、個人情報にも配慮して制作された。当初は台湾の公共放送で放送するために作られたが、この社会問題を広く訴えかけるために商業映画として作る方へ舵を切った。
今作が初の長編映画となるが、短編映画を作り続けていた頃から「権利の不平等」をテーマに作品を撮り続けており監督の姿勢は一貫している。

(数村)

レビュー

この映画は平穏な学園の風景から始まるが、序盤のパーティーで主人公の張(チャン)がミラーボールを見つめるシーンでそのあとの悲しい展開を想起させる。序盤で観客はバスの中で起きた生々しい事件の現場を目撃するが、これは紅林(ホウリン)ろう学校で起きた事件のほんの一端である。真上から撮影したシーンが多いのは、悪事は誰かが見ていて裁かれる運命にあると意味づけているのかもしれない。被害を受けた貝貝(ベイベイ)はそのショックの大きさから誰にも事件の真相を話さず、加害者をかばう言動を続けていた。そんな彼女の味方になってくれたのが張と王(ワン)先生であった。王先生は正義感から事件の真相を暴こうとする。
ストーリーが進むにつれて、学校で過去に起きた問題の数々が浮かび上がり、加害者がなぜ事件を起こしたのかが明らかになってくる。子どもの責任なのか大人の責任なのか?生徒と学校経営どちらが大事なのか?ろう者と聴者の世界の隔たりとは?そんな対立するテーマが本作では物語の鍵となっている。何度か登場する八福神は貝貝の心を守る役割をし、事件が解決したあとの劇のシーンでは希望をイメージさせた。しかし、観客は結末において、子どもの悪はなくならないという現実を突き付けられるのであった…。

(数村)

海が青くなるまで泳ぐ

Swimming Out Till The Sea Turns Blue

2020年/中国/111分
監督:ジャ・ジャンクー(JIA Zhang-ke)

イントロ

本作の監督は中国山西省出身のジャ・ジャンクー。様々な映画祭で作品の上映がなされ多くの賞を受賞している。『海が青くなるまで泳ぐ』もベルリン映画祭にて上映された。
本作には、馬烽・賈平凹・余華・梁鴻という四人の文学者が登場する。
馬烽は山西省出身の文学者である。代表作には『三年早知道』『我的第一個上級』などがあり、戯劇の脚本も手掛けている。彼は農村と深い関わりがあり、短編小説には農村での生活を反映しているものも多い。作中に出てくる賈家荘は山西省汾陽市にあり、現在では多くの観光客が訪れる観光地となっている。
賈平凹は陜西省南部の丹鳳県出身であり、この地は風光明媚である一方、極めて貧しい地である。彼は、文化大革命によって初級中学の途中で学問の道が閉ざされ農作業に従事するも、偶然にも西北大学に入学し、大量の詩を書くも成功しなかったため散文や小説に転向した。代表作に『野山』として映画化された『鶏巣村の人びと』や『浮躁』などがある。文化大革命とは、中国共産党主席だった毛沢東が提唱し、1966年から約10年にわたって中国国内で起こった革命運動である。文化上の反革命批判から始まり、大衆的運動や資本主義に傾いた党幹部や守旧派の糾弾等が行われた。これらの極端な政策によって中国は大きく混乱し、経済は停滞した。
余華は中国浙江省杭州出身で、幼少期に文化大革命を経験する。1989年には文学創作を学んでいた北京で天安門事件に遭遇した。著作『活きる』は映画化され話題を呼び、『血を売る男』、『兄弟』、『死者たちの七日間』等多くのベストセラーを発表し、中国の代表的な文学者である。作品は全世界で2000万部以上発行され、40以上の言語に翻訳されている。
梁鴻は1973年に農村に生まれ、現在は中国人民大学文学院教授である。著書『中国はここにある』は自身の出身地が舞台となっており、他にも村からの出稼ぎ労働者を描いた続篇『出梁庄記』のほか、『神聖家族』『梁光正的光』など多数の著書がある。
以上のような文学者にインタビューを行い、近代中国の変遷について描く。作中に出てくる文学者の著書には邦訳されている物もあるため、それらも読んでみると面白いかもしれない。

(上地)

レビュー

中国の歴史や文学などの知識があまりなくても、祖父の昔話を聞いているような親近感が湧く作品。馬烽・賈平凹・余華・梁鴻といった現代中国の作家たちが、文革を乗り越えてどのような人生を送ってきたのかをノスタルジックに語る。特に、余華の話が印象的だった。歯医者から作家になるまでの軌跡、宿泊代や旅費を心配しながら北京まで原稿を直しに行ったエピソードなど、近所のおじちゃんのようで自然と話が入ってきた。
インタビューで浮かび上がってくるのは、時代の変化である。元々中国は農業国であったが、鎌での稲穂の刈り取りも今ではトラクターを使い、雲ひとつない田舎の青空には飛行機が飛んでいる。最後に梁鴻の息子のインタビューがあったのも、時代の移り変わりを感じさせた。都市に移り住む孫の世代たちには、もう農村部の記憶はない。田舎の経験もなく、方言も喋れない。そういった若者に向けて、本作は田舎の暮らしを記録し、70年に渡る先人たちの記憶を語り継ぐ。
『海が青くなるまで泳ぐ』というタイトルは、余華が最後に語る言葉だ。年代の異なる4人の作家たちが、4世代に渡ってそれぞれの時代の問題を文学にしてきた。これは、賈樟柯監督の言うとおり「愚公山を移す」に通じるものがあるかもしれない。

(梁瀬)

日子

Days

2020年/台湾/127分
監督:ツァイ・ミンリャン(TSAI Ming Liang)

イントロ

監督ツァイ・ミンリャンは、マレーシアのクチンに生まれ、台湾の中国文化大学演劇映画学科を卒業後、演劇プロデューサー、テレビディレクターとして活躍。2作目の長編映画『愛情萬歳(あいじょうばんざい)』(1994)は、1994年のヴェネチア映画祭で金獅子賞(最優秀作品賞)を受賞。その後も多くの作品を発表し続けてきたが、2013年の『郊遊 <ピクニック>』の後は、商業映画から離れ、美術館などでの作品展示が主になっていた。その理由として、「劇場公開作品は、表現方法に制約が生まれてしまうから」と語っている。
本作『日子』は彼の久しぶりの商業映画だ。このような形態をとった理由として、本作の主演でもあり、長年タッグを組んでいるリー・カンションの病気を挙げ、「病を患っているリー・カンションを数年撮り続けてきたが、それを見せるには、美術館のような展示ではふさわしくないと思った」と説明した。『日子』において、リー・カンションは首の痛みを治療するために街へやってくるカンを演じているが、この設定は、病を患う彼自身の状況と重なっているのである。
料理のシーンやマッサージのシーンなど、長回しの多い本作。その中で見せられる、淡々とした動作の連続の中に、何ともいえない美しさが存在し、「動作と時間の組み合わせから新しい映画の可能性ができると思った」と語る監督の思いが、映像によって証明されている。

(藤原)

レビュー

前作『郊遊 <ピクニック>』から商業映画の引退を宣言したツァイ・ミンリャンがその7年後に撮った今作品は、依然として、物語を伝える装置としてしか捉えられない市場的映画とは大きな距離を取る。
セリフさえ排し、必要なもの以外を全て削ぎ落とした引き算の美学の極値とも言えるこの映画は、その引き算の果てに残ったモノが「不必要」であるという奇妙な逆説を呈している。極めて美しく極めて鈍重な長回しの連続。ある二人の男が、ただ生きて、交わり、去る。そのカットのほとんどはフィックスで、通常の映画としては異常なまでに長く、ワンカットの内に行為の起承転結があるわけでもない。何の動きもないカットも度々存在する。
だが、あたかもジョルジュ・バタイユが喫煙という虚無の中に生きることを見つけたように、情報を極限まで排した「空」の中の鎮座にこそ、流れる「時」を、芸術の根源を見つける。言わば「遅くあれ、たとえその場を動くときでも。」と、ツァイ・ミンリャンは述べるのだ。
監督の全ての作品に出演してきたリー・カンションは、作中で首を痛め、至る場所で鎮静している。『青春神話』(1992)において不安に満ちた思春期の多動性を演じたかつてとは対極にあり、「老い」を通して横溢する「時」を構造的にも感じられるだろう。彼と共に映画を撮り続けるという行為自体が「老いる」ということであったツァイ・ミンリャンが、映画市場に絶望し、しかし結局この映画を世に送り出したことを思うと、胸が締め付けられる。葛藤の中に揺れ動く彼の行く先を、これからも追いかけて行きたいと思う。

(松澤)

照射されたものたち

Irradiated

2020年/フランス、カンボジア/88分
監督:リティ・パン(Rithy PANH)

イントロ

本作の監督はカンボジア出身でドキュメンタリー映画を中心に高い評価を受けているリティ・パン。『照射されたものたち』も第70回ベルリン国際映画祭にて最優秀ドキュメンタリー映画賞を受賞した。本作では広島・長崎の原爆投下、ナチス政権によるホロコースト、ポル・ポト政権による虐殺という3つの悲劇を、写真や映像資料などを用いて描いている。
第二次世界大戦中の1945年8月6日及び8月9日にアメリカ軍によって広島と長崎へ原爆が投下され、この時に世界で初めて核兵器が使われた。1945年末までに広島で14万人、長崎で7万人以上というおびただしい数の人々が亡くなり、令和元年には13万人以上の方が、被爆した人に交付される被爆者健康手帳を持っているという統計が出された。
ホロコーストはヒトラー率いるナチス政権によるユダヤ人の迫害及び殺戮を意味し、障がい者やロマ族といった少数民族も犠牲になった。ユダヤ教を信仰するユダヤ人への差別は中世以来存在していたものだ。フランス革命によってユダヤ人にも市民権が与えられたものの、ユダヤ人のキリスト教社会への同化が進むにつれ、ユダヤ人を「劣った人種」とする考えが生まれる。加えてドイツでは、第一次世界大戦で敗北した事による多額の賠償金の支払いや産業地帯の取り上げによって社会不安が蔓延。以上のような時勢を背景にヒトラーはユダヤ人差別の考えを利用し、ユダヤ人を迫害の対象として人々の支持を得たのである。結果強制労働や飢餓などで約600万人が亡くなったとされている。
ポル・ポト政権は1975年にカンボジアの実権を握った政権で、作中でも度々出てくる「民主カンプチア」とはポル・ポト政権の際の国号である。ポル・ポト派は革命を成功させたものの、すぐに全ての市民へ市街退去命令を出し、農業主体の共同社会の建設、通貨の廃止、学校教育の否定などの極端な政策を取った。これらの極端な原始共産制の実現を強行しようとする政策の中、知識人やこれらの政策に抵抗したものは次々と殺害された。また殺害以外でも過酷な状況下における病気や飢餓、強制労働などによって170万人以上が亡くなったとされる。

(上地)

レビュー

広島の原爆投下、ナチスのホロコースト、カンボジアのポル・ポト政権下で行われた虐殺の映像をモンタージュしたドキュメンタリー。
私はこれらの悲劇をわかっているつもりになっているだけだった。文章で知って、苦しみを催す画像や映像を見て、この過ちを繰り返してはならないと教育された。この映画も同じことを訴える。この過ちを繰り返してはならないと伝える。しかしこの映画には今までの教育にはない恐怖があった。この映画は、恐ろしい。
包丁を初めて使う前に、猫の手を教えられる。そして気を付けましょうと言われる。しかし多くの人が包丁で指を切る。そしてもう2度と切らないようにしようと心に決める。切る前と後では心構えがまるで違う。
死体の山に隠れた。皮膚がすべてただれ落ちた。地獄のようだった。そんな言葉の数々を見聞きして想像して哀悼する。私は教育されてあの過ちが愚かであることを知っていて、人類として反省している。だが恐れていなかった。認識、反省、そして恐怖。それが本当にあの悲劇を理解することなのだ。

(岩本)

本作では多くの市民が犠牲となった3つの戦争が取り上げられ、残された実際の映像と、そこからインスピレーションを受けた現代の表現者による実写映像が組み合わせられている。
三分割された画面で次々と流される悲惨な映像の数々に目を背けたくもなるが、三分割されているからこそ目を背けている暇などない。
世界規模の戦争が終わりを迎えてから75年あまりたった今、戦争を知らない人々が大半となっている中で、映画の見せ方によって戦争との向き合い方を伝えているように思う。
作中、戦争の被害者、加害者の両方の視点から語りが入れられる。しかし、加害者の語りには、自分の行為を納得させようとする言葉が並べられており、加害者もまた戦争の被害者であることをひしひしと感じさせた。
そして、最も非人道的な戦時行為の一つであった広島・長崎への原爆投下。私自身、被爆地の実際の映像をこれほどたくさん見たのは初めてだったこともあり、その過ぎた悲惨さに言葉も出なかった。街も人間も、跡形なく焼き滅ぼされてしまった。あまりにショッキングな映像の数々に胸を痛めていた私に追い討ちをかけるように、表現者らが被曝者の様子を再現する。その言葉にならない痛々しさを身体で表現する。そのインパクトのある映像は観賞後も脳裏に焼きつき、観た者に言葉にならない余韻を残す。

(東)

平静

The Calming

2020年/中国/89分
監督:ソン・ファン(SONG Fang)

イントロ

本作の監督は、第13回東京フィルメックスのコンペティション部門において上映された『記憶が私を見る』(2012, 京都フィルメックス2021においても上映)を手掛け、ロカルノ映画祭では最優秀新人監督賞を受賞した中国出身のソン・ファン。『平静』は第2作目となる。本作も第70回ベルリン映画祭で国際アートシネマ連盟賞を受賞した。
主人公・リンを演じるのは、第7回アジア・フィルム・アワードや中国メディア映画賞などで最優秀新人賞を受賞しているチー・シー。作中の舞台に日本も含まれる事から、『浅田家!』や『風の電話』など数多くの作品に出演している渡辺真起子や東京フィルメックスディレクターの市山尚三氏も友情出演する。
本作では主人公と家族、及び友人との会話や日常を中心に描かれているが、舞台の一つとなっているのが、新潟県の越後湯沢温泉である。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という巻頭の一節で有名な川端康成の『雪国』は、湯沢温泉にある雪国の宿高半で書かれたものであり、当宿が物語の舞台である。本作でも高半の文学資料室が撮影現場となっており、川端康成の『雪国』はキーアイテムとなっているため、作品をより味わうために一度読んでみるのも面白いかもしれない。

(上地)

レビュー

中国人女性アーティストが東京から新潟、そして香港へと旅を続ける中で自身の「平静」を取り戻してゆくストーリー。淡々と流れる美しい景色の中に、一人ひっそりとたたずむ彼女。言葉数は少なくとも、心を覆う悲しみが痛々しいほどに伝わってくる。恋人との別れのこと、父親の病気のこと。様々な心の重荷を抱えつつも決して誰にも相談せず、静かに涙を流す。そんな中、彼女の悲しみを浄化させていくのは家族や友人達、そして大自然であった。「空間を見て、音楽を聴いて、うたた寝」するかのように大自然に身を委ね、心を通わせ、自身を忘却してゆく。
現代に生きる私たちは、慌ただしい日常の中で、ただぼーっとする時間が不足しがちである様に感じる。そんな時こそ、風の音を聴き、大自然に身を委ね、日常から離れてみる時間があってもいいのではないだろうか。この作品自体がまさに私にとっての「ドラえもんのドア」であり、生まれ変わった新しい自分へ立ち会うためのきっかけとなるだろう。単調な物語であるが、雪がしんしんと降り積もった後に差し込む日差しの様な、少しだけ明日を明るく照らす作品であった。

(刀根)

記憶が私を見る

Memories Look at me

2012年/中国/87分
監督:ソン・ファン(SONG Fang)
*第13回東京フィルメックス コンペティション審査委員特別賞受賞

イントロ

中国江蘇省出身のソン・ファン監督は、ベルギーのINSAS研究所で学んだ後、2008年に北京電影学院で映画監督の修士号を取得。また、在学中、『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』(2007)においてベビーシッターの中国人留学生役を演じている。
本作『記憶が私を見る』は、監督初の長編映画であり、2012年には第13回東京フィルメックスでも上映されたが、今回、長編第二作『平静』(2020)に合わせ、特別関連上映としてスクリーンに戻ってくる。
「暫く前から自分の両親の生活ぶり、自分の両親の世代が背負っている多くの物語に感動して、それを撮りたいと思っていた」と語る監督。北京で働く主人公が実家へ帰省し、家族や隣人たちと語り合う中で生と死が浮かび上がってくる本作は、ドキュメンタリーに近いもので、監督の家族たちが本人役として出演している。脚本も、監督が過去に彼ら/彼女らと話した本当の会話を元にして作られたものだ。そのようなこともあって、劇中の登場人物たちの会話は非常に生々しく、リアルなものとなっている。語られるのは個人的な体験や思い出だが、それによって、普遍的な人生の問題や多くの人の物語が提示されているのである。

(藤原)

レビュー

人生の中で、生と死について家族とじっくり語る時間はどれほどあるだろうか。
大人同士になったからこそ話せる昔話。
久々に会うからこそ吐き出せる本音。
時が経ったからこそ明かせる親の苦悩。
歳を重ねたからこそ向き合える過去。
監督兼ヒロインのファンは、様々な人と出会い、多くの話を聞くが、自身は多くを語らない。
『記憶が私を見る』というタイトルの通り、記憶を映像にし、監督自身がそれを見ることでこの映画は初めて完成するのではないかと思う。
映画という物語の記録媒体を上手く利用して、自分の半生を別の人の語りで振り返ることで自身の成長を知るというこの作品の構図は、実に素晴らしい。
定点カメラで日常を写したホームビデオを見ているような感覚だった。
出演者は本人役であるからこそ引き出せた会話の数々にハッとさせられることも多い。
”亡くしてから気づくその人の大切さ”を、亡くす前に気付かせてくれた。
家族との日々のたわいない時間こそ、その幸せを噛み締めておくべきと感じさせてくれる。

(東)

消えゆくものたちの年代記

Chronicle of a Disappearance

1996年/パレスチナ/84分
監督:エリア・スレイマン(Elia SULEIMAN)

イントロ

本作の監督はイスラエル北部地区の都市・ナザレ出身のエリア・スレイマン。『消えゆくものたちの年代記』はヴェネチア映画祭で最優秀新人監督賞を受賞した彼の長編デビュー作である。
作品の舞台はパレスチナであり、パレスチナ問題による武力衝突によって現在でも緊張が続いている場所だ。パレスチナ問題はアラブ人とユダヤ人の衝突を指し、作中でもその対立関係を一人のアラブ人女性のを登場させる事によって描いている。エルサレムを含むパレスチナは1000年以上アラブ人が住んでいたものの、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地でもあるため、これらの宗教を信じる人々にとって重要な地域であり、19世紀以来この地にユダヤ人国家を建設しようという動きがあった。第一次世界大戦中、アラブ人とユダヤ人両者の協力が必要だったイギリスが、パレスチナにユダヤ人国家建設を認める一方で、アラブ人にもパレスチナでの独立を約束した事により問題が複雑化していった。さらに第二次世界大戦で迫害を受けたユダヤ人は自分たちの国家を持つ意思を固め、1947年に国連総会でパレスチナ分割案が提示されると、ユダヤ人はそれを受け入れ1948年にイスラエルが建国されたものの、ただちにアラブ人がそれに反対したため第一次中東戦争が起き、以後長い紛争が続いた。1995年にパレスチナ自治拡大協定が調印されパレスチナ問題は和平に向かっていくかに思われたが、エルサレムの帰属先問題等により現在もその問題は解決に至っていない。
以上のような背景を持つ地域で人々はどのように生きているのか、パレスチナ問題を含め様々な事を考えるきっかけとなる作品であろう。

(上地)

レビュー

エリア・スレイマンの長編デビュー作である本作は、ジャック・タチを彷彿とさせる出色のコメディ映画だ。それぞれに特徴的な固有のアングルや構図を持ついくつかの場所で、そこにいる人々の一日をユーモアたっぷりに描いている。翌日、また翌日とそれを繰り返すが、その人々が群集劇的に交わることはない。映画はあくまで、市井の人々それぞれの生を眺めることに拘っている。場所一つ一つのエピソードの説話的機能は、イスラエル・パレスチナ地域の知識に欠けるため残念ながら分析することは出来ないが、それでもその映像美と、構図の反復における類似と差異は深い感慨を残す。そんな街での喜劇的出来事に、鑑賞中は思わず顔が綻ぶだろう。しかしふとした瞬間、この映画が「消えゆくものたちの年代記」であることを思い出すたびに、私達は立ち止まる。
作中エリア・スレイマンが本人として本格的に行動し始めると、映画の意味は更に拡張される。講演のシーンはとても印象的だ。彼が何かを語ろうとしても、マイクはハウリングし、声は人々に届かない。喜劇の裏に切実さを含むこの語りが彼の真骨頂である。
一種超越的な観察者として、街の人々を撮影し、眺めるスレイマン。「消えゆくもの」であると知っていながらそうすることに、何を思うのだろうか。夕暮れに街を見下ろす時、何を思うのだろうか。そして映画にとって何よりも大事なことは、それを観たあなたが何を思うかだ。

(松澤)

D.I.

Divine Intervention

2002年/フランス、パレスチナ/92分
監督:エリア・スレイマン(Elia SULEIMAN)

イントロ

イスラエルとパレスチナの問題を、ユーモアと皮肉を効かせて描いている本作。監督であるエリア・スレイマン自身がE.S.という名前で主役を務めている。
パレスチナ問題は非常に複雑だが、映画の理解のためにも、ここで触れておきたい。パレスチナ地方は聖書にも登場する歴史の古い地域であるが、16世紀から19世紀ごろまでは、オスマントルコ帝国の一部となっていた。19世紀以降、オスマン帝国が崩壊に向かうに連れ、パレスチナに住む独立を目指すアラブ人(アラビア語を話す人々の総称)の運動が活発になった。同じころ、ヨーロッパで迫害を受けていたユダヤ人は、約3000年前に自分達の国(イスラエル王国)が存在していたパレスチナに再び民族国家を建設しようと試みる(シオニズム運動)。
第一次世界大戦中、イギリスは戦争資金調達のために両者の運動を利用しようと、ユダヤ人たちに対してはパレスチナへのユダヤ国家建設を支持する旨を、アラブ人たちに対してはアラブの独立支持を約束する旨を伝えた。つまり、一つの土地の権利を二つの民族に約束してしまったのである。これが、対立のきっかけとなった。
第二次世界大戦後、パレスチナを統治していたイギリスは、両者の対立を解決しないまま撤退。1948年、ユダヤ側がイスラエル建国を宣言、それによるアラブ人の反発により第一次中東戦争が勃発する。戦争によって、パレスチナに住んでいたアラブ系の住民(パレスチナ人)は土地を追われ、多くが難民となり、その数は70万人にも及んだ。その後も大きな戦争や闘争が幾度となく繰り広げられる中、1994年にガザとヨルダン川西岸においてパレスチナ自治が開始された。これが、パレスチナ自治区である。「自治区」というものの、依然イスラエルとの緊張関係は続いており、正式には「暫定自治区」となっている。
スレイマン監督は、イスラエルのナザレに生まれたが、彼自身はアラブ系のパレスチナ人だ。本作においても、例えば追われるサンタクロースや検問所などの印象的なシーンによって、イスラエルでパレスチナ人として生きることの大変さや、「近くて遠い」パレスチナ自治区についての言及を行っている。『D.I.』は、リアルと虚構が交差する幻想的な映像に、シュールなユーモアが詰まった美しい作品であると同時に、簡単に解決することのできない深い断絶と争いの現実を突き付ける作品でもあるのだ。

(藤原)

レビュー

イスラエル領とパレスチナ自治区を舞台に、現地の不条理な実情を皮肉りつつ、境界線に隔たれたある男女の模様を描いた本作。子供たちがサンタクロースを排斥する印象的なオープニングで始まり、序盤は現地の人々の日常の一コマが、政治的風刺をこめてテンポよく描かれる。重いはずのテーマが良質なコメディとして提示される本パートは観る者の心をつかむには十分すぎる仕上がりである。
中盤から後半にかけてはいよいよ主人公の男女に焦点があてられるのだが、ここでは監督エリア・スレイマン自身とマナル・ハーデルのほとんど無表情に近い名演が作品を確立する。表情の変化という分かりやすい手段を多用することなく人の心情の機微を、映画全体の空気感のみで伝えるその手腕は確かなものである。
終盤はこれまでとは大きく様相を変えるがこの点についてはぜひご自身の目でその変化を目の当たりにしていただきたい。
終始、シュールな世界観で物語が進行する本作であるが、その雰囲気を醸し出すのに一役買っている特筆すべき技術としては、「対比とタイミング」が挙げられるであろう。政治的テーマと軽快なコメディタッチ、静と動、静寂と轟、スローテンポとアップテンポなど、メリハリある対比の妙。それを完璧な間で用いるタイミングの妙。これらの2要素が本作の唯一無二の世界観を作り上げる鍵となっているのだ。

(五味)